平和病院脊椎外科・横浜脊椎脊髄病センター
センター長 田村睦弘
私が村山医療センターに勤務したのは2002年1月から2007年3月です。脊椎脊髄病治療で全国トップレベルにある村山医療センターには、当時も優秀な脊椎外科医が数多く集まり、切磋琢磨していました。そんな先生方に囲まれ、自分もいつか追いつきたい、一流といわれる脊椎外科医になりたいと強く思ったことを覚えています。
村山医療センターには、腰椎椎間板ヘルニアや腰部脊柱管狭窄症、頚椎症性脊髄症などの変性疾患だけでなく、脊椎カリエス、脊髄損傷、脊髄腫瘍、特発性側弯症といった難治性疾患の患者さんも多くいらっしゃいました。特に脊椎カリエスや脊髄損傷、側弯症の手術には高度な技術を要します。私もそのような難易度が高い手術を数多く経験させていただきました。現在あまり行なわれなくなった脊椎前方手術では大血管や肺,腸管の操作を経験し、集中的に手術の腕を磨くことができました。術後管理も叩き込まれ、おかげでどんな術中・術後合併症にも動じなくなりました。
厳しい状況にある患者さんが多いこともあり、カンファレンスではいつも真剣な議論が行われていました。そこは、私たち若手が、脊椎脊髄病やその手術に対する考え方や姿勢などを学ぶ場でもありました。
骨・運動器疾患の臨床研究センターを持つ村山医療センターは、臨床研究の分野でも国内有数でありました。私も、脊髄損傷の研究や論文の執筆や投稿、学会発表を数多く経験させていただきました。
手術で症状が改善して笑顔で退院される患者さんがいる一方、手を尽くしても、現在の医学では望むような結果を得られない患者さんもいます。医学や手術の限界を感じることもあるのは事実ですが、だからこそ、今できる最善の手術をすることが外科医の使命であり、生き甲斐でもあることを村山医療センター時代に実感しました。
診療や研究に取り組む中、どのような患者さんとも人生をともに歩むという気持ちを忘れることなく、メスが握れなくなる日まで手術の現場で生きて行こうと心に決めました。知識や技術だけでなく、脊椎外科医として不可欠なスピリットを村山医療センターで学んだのです。
厳しくも恵まれた村山医療センターでの時間でしたが、 慶應義塾大学医局の人事で異動することになりました。教授から、地元横浜の新しい大病院で脊椎医療を展開してほしいと言われたのです。そのような大役をいただけたのも、村山医療センターでの努力が認められたからではないかと自負しています。
村山OBとして、後輩の先生方に1つアドバイスさせていただくとしたら、先輩の手術に積極的に入り、手術の記録ノートを作ることをおすすめします。手術が終ったら、先輩の手術をあたかも自分が執刀したかのように記録ノートに書くのです。研究者の実験ノート、運動選手の練習ノートのようなものですが、先輩の手術に入った貴重な経験を自分のものにするのにとても役立ちます。私自身、少しでも早く手術をマスターしたいという貪欲さがあったせいか、記録することによって、1件の手術、1人の患者さんからもたらされる経験を先輩医師と共有して自分のものとして蓄積することができました。村山での手術記録ノートは10冊近くあり、いつでも手の届くところに置いてあります。これらは大切な宝物です。時間があれば何度も何度も読み返し、その経験を忘れないようにしています。
現在は毎月50件、年間500件以上の手術を執刀させていただく脊椎手術漬けの毎日ですが、それに必要な気力体力も村山医療センターで培われました。最近は内視鏡下手術などの低侵襲手術を主体に行っていますが、低侵襲手術の土台には村山医療センターで学んだ全ての経験が生きています。
整形外科医・脊椎外科医となって20年。今も昔も毎日が貴重な経験の積み重ねであることに変わりはなく、喜びや充実感、苦しみや辛さなど、さまざまな感情がともなう手術はまるで人生のようだと感じます。
ご指導いただいた先生方に、心から感謝を申し上げます。また、ともに研鑽を積み支えあった若手医師仲間、看護師さんや検査技師さんなどのパラメディカルの方々、秘書さんや事務の皆さんにも、この場を借りてお礼を申し上げます。
村山医療センターの益々のご発展と、先生方のご活躍を祈念いたします。